ご飯を食べると、視力が回復する、気がする。
電車に座って、といめんの広告の文字が、さっきよりもはっきり見える。
その前に食べた、ご飯がカラダに吸収されはじめた頃なのか?と思ったりした。
だんだんと、カラダにご飯が吸収され、目の養分が補充されて、視力が回復する、ような。
視力、0.01くらいのわたしの個人的にな意見ですけど。
メガネかけて、見てますけど。
ご飯を食べると、視力が回復する、気がする。
電車に座って、といめんの広告の文字が、さっきよりもはっきり見える。
その前に食べた、ご飯がカラダに吸収されはじめた頃なのか?と思ったりした。
だんだんと、カラダにご飯が吸収され、目の養分が補充されて、視力が回復する、ような。
視力、0.01くらいのわたしの個人的にな意見ですけど。
メガネかけて、見てますけど。
会社の年末年始の挨拶用につくる、手帳。
そんなに、いま、手帳の需要は、以前ほどは無いと思う。
なぜなら、いまや、一人一台スマートフォン時代だから。
手帳でできることの多くは、すでに、手の中にあるスマートフォンでまかなえるのだから。
いやさ、手帳には手帳の魅力があり、スマートフォンとは違った良さがある、というだろう。
たしかに、全くその通りで、紙の手帳の良さもあるのだよ。
が、そこに、こだわりのある人は、自分の好みの手帳を選ぶところから含めて、手帳が好きなのよ。
うん、手帳にこだわりがあると言ってよい。
会社が新年のご挨拶につくる手帳で、そのこだわりにマッチしたら、いいけども。
見向きもされない、手帳たちが、じっさい、会社のダンボールのなかにいくつもある。
あとは、廃棄を待つのみの、使われなかった手帳たち。
会社で、ちらちら見るたび、なーんか、かわいそうなのよね。
かつて、ウガンダ・トラは、こう言った。
カレーは飲み物である
と。
たしかに、しごく、名言である。
じっさい、カレーは飲み物であるのは周知の事実であるのだけど、実は、カレー以外にも「飲み物」は多く存在する。
わかりやすいところで言うと、餃子は「飲み物」であろう。
わたしのように、餃子が大好きな人にとっては、焼き餃子も水餃子も、どちらも同様に「飲み物」であるのだけど。
そうじゃない人にとっても、水餃子が「飲み物」であることには、なんら疑問をもたないだろう。
上の写真は、焼き1、水3の「飲み物セット」だ。
しかし、今回の旅で認識をあらためたことがあった。
「飲み物」よりもさらにもっと、人間に吸収されやすい、食べものが存在したことだ。
それは、フライドポテトである。
フライドポテトは「食べもの」でも「飲み物」でもなく、実は「空気」に近いものである、という認識。
わたしとこの週末を一緒に過ごしたレディーは、まさに、フライドポテトを「空気のように吸って」いたのだ。
「ポテトを吸う」のは、わかりやすくたとえるなら、「タバコを吸う」、という感覚に近いのかもしれない。
「ポテトを吸う」様子を間近で見たわたしにとって、それは疑いようのない事実だったのだけど。
たばこが煙になって、空中に消えてしまうように、わたしの目の前のフライドポテトの山が、どんどんと煙のように消えていったのだった。
すっ、すっ、すっ、呼吸のたびにフライドポテトは消えていった。
「フライドポテトは吸うもの」であることを、多くの人に知ってほしくて、ここに記す。
おそらく、2017年の大発見であろう。
よく怒ってる人が使う言葉に『そんなことも分からないの?ジョーシキだろ!』みたいな。
そのことが、さも、世間一般的なジョーシキという言葉で、定義した気になる言葉。
逆になにが、非常識な行動かどうかは、その怒ってる人の理解の範囲外にあることだ。
うむ。
なるほど。
実に、ジョーシキ的な人のお言葉だけあって、説得力があるなあ()
たとえば、自分のわかってることという範囲には、その人自身、カラダそのものも、全て分かっている、のだろうか。
その人のカラダには、ざっくり、何個の骨があるのかしら?
カラダを構成する、基本の、基礎の、骨が何本あるか、その人はご存知なのだろうか。
まあ、ジョーシキだわな。
その人のカラダのことだもんね、知らないわけないよね。
例えば、その人カラダは、どのくらいの細胞から成り立っているのかな。
そんなことは、考えたこともないから、ジョーシキからして、知らなくてもよいことかな。
社会のジョーシキと、その人にとっての非常識とは、ホントに、本当にこれ!ってものがあるのかしらねえ。
会社で、ジョーシキって言葉をよく使ってる人がいるので、観察してるところだったりする。
金曜のお昼に食べたなか卯のうどんについて、月曜1時に日記にするとすると。
急に、うどんのやさしみを思い出したから。
東京に、讃岐うどんが進出して久しい。
うどんは、どんどんコシを求めるものになり、つるつるしこしこがうどんの代名詞になり。
なんだったら、もっとコシのある、ぎゅむぎゅむってくらいにコシのあるうどんだってある。
が、うん、そういうのと違う、うどんもあってよいなと。
なか卯のうどんを食べた時に、やさしみを感じたのは、もしかして、それなのかな、と。
いや、うん、いつもいつも、なか卯のうどんを食べているわけではないので、なか卯の標準のうどんのかたさとか、コシのぐあいとかは、よく知らないのだけども。
金曜のお昼に食べたなか卯のうどんは、コシがあんまり無かったのね。
親子丼と、うどんのセットのうどんは、コシがあまりなく、柔らかく、うどんの喉ごしなんてものは一切ないような。
コシのない、くにゅくにゅのうどんだった。
くにゅくにゅのうどんの、なんていう、やさしみよ。
離乳食や、子どもの頃に、うどんをじっくり茹でて、噛みやすくして、なんだったら、歯がなくても食べられるくらいに柔らかくして。
それを、ふーふー冷ましてくれながら、食べさせてもらうような、うどんの柔らかさって、あるじゃんね?
それって、やっぱり、やさしみを伴った、うどんなわけじゃんね?
コシのないうどんに感じた、ある種の優しさや、郷愁は、もしかしたら、こういうところからのイメージなのかもしれないね。
やさしみの、ちゅるちゅるうどんを、食べたい、月曜の深夜1時過ぎ。
今日は、実家のねっこを触ってきた。
家の中でだけ、飼っているのだけども、活動範囲が広がっていた。
まず、二ヶ月前に、話は遡るのだけど、そのときは、4畳のスペースがすべてだった。
その4畳の部屋の、さらに、スチールラックの、最上段が、ねっこの領域だった。
次に、一ヶ月前のときは、4畳のスペースから出るようになっていて、となりの居間までが活動スペースになっていた。
こたつで寝たりするようなっていた。
そして、今日みたねっこは、2階まで階段を使って移動して、妹の部屋で寝ていた。
だいぶ、活動する範囲が広まっていた。
外にも、かなり興味があるようで、玄関のあたりから、外が気になるらしい。
クツについた外のニオイを、スンスンしたりもするんだって。
二ヶ月で、だいぶ大きくなっていて、もう、仔猫ちゃんでは無くなっていたな。
ねっこの成長は、早い。
わたしの顔は覚えてなかったみたいで(そりゃそうよ)、ものすごい勢いで逃げられた。
いまの、様子が良くない結果があるとして、どこにその原因があったのかを、特定するのは大事と思う。
次に、同じ失敗をしないために。
が、そういう意味で、過去を振り返らない人もいる。
過去の失敗ポイントを、他人のせいにできるポイントまで、遡って、その人を追求するパターン。
その時の、行動や判断のものを、いま、とことん追求するタイプ。
もう、いま、それを言っても、どうにもならないことを、愚痴愚痴いうのは、違うと思うんだけども。
わたしはネガティブだけど、そういう意味で、過去にネガティブではない。
未来に向かって、ネガティブなタイプ。
過去の、あの時こうすればよかった。
あの時、そう、判断しなかったアナタの考えは、間違えてる、は、それは、良くないと、思うんだよなあ。
少なくとも、わたしとは、違うな。
まあ、深夜だし、下ネタ書いておいてもいいよね。
うん、いいよ。
ありがとう。
深夜四時のすこし前に、目が覚めた。
いわゆる、朝だちしていた。
勃起してる。
勃起は、エロいことを考えてると、なる、のは、確かにあるけど、それだけじゃない。
乳首のボッキは、エロいこととは、関係なく、寒くてもボッキすることあるじゃん?
おちんちんのボッキも、エロいこととは無関係でも、ボッキするのよ。
朝だちは、尿意により、なる。
また、リラックスしてるというか、うとうとというか、気持ちがゆるーくなると、ボッキする。
副交感神経と、ボッキは関係があるのでね。
一方で、疲れている時にも、ボッキはする。
疲れマラ、とか、疲れ魔羅とか、いうらしい。
しぬまぎわに、射精して、子孫を残そうとする、とな。
都市伝説ではなく、実際、疲れてると勃起するんだって。
さてさて、いまの、わたしの勃起ぼっきのガチちんちんは、いかなる理由によるものか。
たんに、性欲だったりするのかな。
どれも、正解かもしれないし、違うかもしれない。
ボッキと、勃起と、字の統一をしない理由は、まるでない。
一つ、正解があるとすれば、深夜の四時前から、深夜の4時15分まで、ボキのおにんにんは、ボッキしてる、という事実。
ここで、おナニーして、寝た方がいいのか、このまま起きた方がよいのか、わからないけど。
無駄に射精しない方がよい、というのは、道教の教えだったかな。
セックスしても、射精はしない、という、房中術もあるもんね。
いや、セックスして、射精しない術を学びたいとは思ってないけど。
この日記が、どこへ行くのは不明。
酔ってはないんだ。
素面で、おちんちんのボッキの日記を書いているんだ。
なんて書いてたら4時20分。
いい加減、日記終わろう。
ボッキは治まる気配が、まるでない。
鼻から血を流している。
ここのところ、毎日、ほぼ、毎日、鼻から血を流しているのだよ。
メンチョが、なおりそうで、治らない。
鼻の頭の部分が、メンチョになって、いろいろあれこれしてたら、そこから血が出るようになった。
で、かさぶたになって、治ってきたなと思いきや…
朝、顔を洗う時に、そのかさぶたがポロッと取れる。
しかし、かさぶたの下は、まだ完全には皮膚ができあがっていない。
けっきょく、そこから、また出血する。
いまも、なお、なう、鼻から血を流しつつ、この日記を書いている。
あ、鼻の穴から血を流しているのではなく、鼻の頭から血を流している。
という日記。
もう、10日くらいは、治っていないな。
孤独は人を強くする、と、ある人は言うだろう。
その発言をする人が、孤独の時に、得られた経験からの発言だろう。
また、別のかの人は、孤独は人を弱くする、と言うかもしれない。
こちらの発言をした人は、孤独の時に、弱まる経験を得たのだろう。
どっちが正解か否かは、人による。
同じようなことに、明るくポジティブに生きたら、いいことあるよ、という話もある。
逆に、暗くネガティブな生き方しかできない人もいる。
そら、そうよね。
きのこは、湿気のあるじめっとしたところで育つものだけど、それを日向のカラッとした陽気のところで、すくすく育つかってハナシ。
性根と、いままでの育ってきた環境と、これからの歩む道によって、意見は変わる。
孤独は人を強くするという意見の人が、ある時を境に、逆の立場で発言することだってある。
それはそれとして、わ
孤独のグルメシーズン5が、ニコニコ動画で配信されるように、なりました。
食べる時は孤独でも、料理を作ってくれる人はいるんだよなぁ。
料理を支払うだけの収入もあるってことは、社会から孤立してるわけでもないんだよな。
孤独のグルメは、孤立のグルメ、ではないから、当たり前っちゃ、当たり前かな。